No.5 (3月29日の朝)


金曜日、Nに電話を入れたが会社を休んでいた。自宅に帰ってから
もう一度掛けてみたがやはり不在のようだった。

翌日、土曜日、午前7時半頃、電話が鳴った。
「今朝、亡くなった。」と突然、受話器の向こうからNの涙でうる
んだ声が聞こえて来た。 「え・・・・」わたしは絶句してしまっ
た。

「明日お通夜で、明後日葬式をする。」・・・・・・・・・
「取りあえず連絡だけはと思って。」

「分かった。」と答えて電話を切るのが精一杯だった。

数年前から癌だった奥さんが亡くなった。最近、とみに衰えてい
るとNからは聞いてはいたのだが・・・・・・・・・・・・・

四谷に仕事に行く、帰ってから仮通夜に行くことに・・・・・・

うつろな気持ちで店の鍵を開け一日が始ったのだが・・・・・

午後になりコーヒーを入れ窓ぎわの席に腰を下ろし何となくこれ
までを振り帰ってみると、私は、彼のことを一度もNともN君とも
呼んだことは無い。いつも名前で呼んできた。高校の入学時に知
り合って高校生時代、学生時代、社会人時代と今年で丁度40年、
何と長い間つき合ってきたものだろ。あらためて考え驚いた。結
婚してからも家族ぐるみで出かける機会がよくあった。そんな中
でも、彼女のことで一番印象に残っているのは大芦川の蕗平の雅
男さんの所に2家族で一泊、釣りがてら遊びに行った時のことだ。
暖かく気持ちのいい日で。皆、思い思いに、近くの小径をブラブ
ラと散策していた時のこと。彼女が、「あっ、かたくりの花だ。」
と呟くようにいった。わたしは近くに居たので振り向くと、彼女
の指差す緑の葉の中に一輪、あわい紫色の小さく可憐な花が目に
映った。私は、生まれて始めて見るその”かたくりの花”に感動
したのを覚えている。

もう、20年以上も前のことになるが・・・・・・・・・
”かたくりの花”は彼女に教えてもらった。

そんな思いをめぐらしているうちに、窓の外新宿通りには車のラ
イトがつき始めた。少しはやいが一旦自宅に帰ろう。なぜか気持
ちが落ちつかない。

夜、彼の家の玄関に立ち、門灯の薄暗い光にぼんやりと照らし出
されたチャイムを押す。彼女のお姉さんが沈痛な表情で、ドアを
開け私を向かい入れてくれた。和室に通されるとNが彼女の枕元
に座り、沈痛な表情だが見守るように座って居た。私は、正座を
して彼に深く頭をさげた。心の中は 頭を上げた時、最初に何と言
えばいいのか・・・・・

そんな私に「顔は、きれいだろうが」とNが声を掛けてきた。本
当に、今にも目お開けそうに思えるほどつややかでおだやかな表
情をしている。「とうとう、一人になってしもうた。」とゆう彼
に「いや、長男、たっ君が居る」といおうとしたが、なぜか言葉
にして出すことが出来なかった。

長く沈黙した時間が流れる。

それを嫌うように、Nが「最後は痛がってモルヒネを何度も打っ
た。」「ズ−ッと痛がってたから、先生に頼んで・・・」

わたしは、言葉が無かった。

わたしは彼女の枕元に正座し、私の親友であるNを長い間面倒を
見て来てくれたことを感謝し手を合わせ別れを告げた。

それからNの親族の方々においとまのご挨拶をすませ外にでた。
3階の裏階段を降り、車まで歩きドアにキーを刺しながらNの部
屋の窓の灯りを見上げると視界の中に芽吹き始めたケヤキの枝の
間から星の光が小さくこぼれて見える。

彼女が入院していた病院の庭に桜の木があったが、花が好きだっ
た彼女は最後の桜の花を見ることが出来たのだろうか? そんな思
いがふと心の中をよぎる。

Nの今の気持ちを考えると、私の胸にこみ上げてくるものがある。

私は整理のつかない重い気持ちのまま車に乗り込んだ。




     N夫人の御冥福心からお祈りします。



Copyright 2001 MOUNTAIN BROOK, All rights reserved.