12)冬枯

私は落葉の中の山道に車を止めた。トランクを開け、ダウンジャ
ケットを着込み、カメラなどの入った布袋を下げカサカサ落葉を
踏みながら、なだらかな川への坂道を下りて行った。川に立つと
微かな風が流れて行く。
春夏秋冬、川に立つとそれぞれの季節のそれぞれの風がある。

川の石は白く乾き、水はゆっくり冷え冷えと流れている。

今日は、昨年秋に見つけた山女魚の産卵床の様子を見る為に来た。
稚魚のふ化に必要な積算温度はもう越えていると思うが確信があ
る訳では無い。川原を上流へ上がって行く。山肌はすべてが冬色
のままである。それにカメラを向けシャッターを何度か切った。

私は、少し体温を上げる為に早足になる。理由は裸足で川に入り
産卵床を見るからだ。
歩いているうちに昨年山女魚のペアリングに出会った辺りに着い
た。石に腰をおろし布袋から魔法ビンを取り出し湯気の立つコー
ヒーを呑む。

これからこの冬枯れの川に入るのを想像するだけで全身に寒気を
覚え、ため息を2度ほど吐いた。
それでも孵化した稚魚を見たいと言う欲望の方が勝り、ズボンと
靴を脱ぎ裸足になり、ゆっくり、ゆっくり砂利を踏み締めながら
川の中に入って行った。
足からの冷たさが背中に伝わり身震いをしてしまう。
昨年見た産卵床の大体の見当をつけ近寄り、両腕を捲り砂利をす
くい、そっと持ち上げるようにし眼をこらして見てみるがそれら
しき物は何も無い。さらにくり返してすくって見るが何も見つけ
ることは出来なかった。

私は、数分であまりの冷たさにたえられなくなり川原に戻ること
にした。水から出て石から石に伝い歩きで砂が足に付かないよう
に布袋の基地まで戻った。
タオルを取り出し手足を拭くが足の方は感覚がなく他人の足のよ
うだ。体を温めようと靴下を履きもう一度コーヒーを呑む。

何も無いと言うことはもう孵化してしまったのだろう?
それともすべてが雨で流されたのか?
コーヒーを呑みながら謎ときをするが納得できる結論は出ない。
安易に見ることが出来ると思っていたのが甘かった。

思い付いたのは、近くの知人のところへ行き箱眼鏡を借り川底を
丁寧に見てみると言うことだった。
車に戻り山道を下る。

彼の家の庭に車を止め玄関の木製の古いガラス戸を開けると土間
に長めの手桶に真っ赤な「ななかまど」が投げ入れてある。
色を無くした冬の玄関先きに赤い実だけが奇妙なほど美しい。
しばらく使っていなかったのだろう木桶の下から水が少し漏れ土
間が濡れている。

「こんにちは」声をかけながら入って行く。
「オオッ、どうしたの?」と多少驚きながら障子を開けて彼が出
て来た。
私は、訳を話し箱眼鏡を貸してもらう。
「まぁ、お茶でも呑んでいきなよ」
本当はすぐに引き返し箱眼鏡を使いたかったが、体も冷えていた
のでお茶をご馳走にになることにした。
ここの水は沢水を溜めたもので、お茶はすこぶるうまい。
お茶受けにおばーちゃんの作った刺身こんにゃくが薬味に細ネギ
をかけて出て来た。美味しさは以前にもご馳走になり十分理解し
ていた。それをいただきながら世間話しをし小1時間ほどが過ぎ
た。

箱眼鏡を抱え再び川原に下りて行く。
岸際から箱眼鏡を水につけ流芯を覗くと時折、朽ちた木の葉が流
れて行くだけで稚魚の姿はまったく見えない。少し下流に行って
見ることにした。

ゆっくり歩きながら空を見上げ歩き出す。
青く晴れ、白い雲が尾を引くように2筋、3筋と流れてゆく。
晩冬の空は透明度が高く空気は胸にしみるほど冷たく、微かな寂
しさを含んでいる。10分ほど下がると自然に出来た小さな堰堤
に着いた。川面は枯葉で一面が覆われている。流れが緩やかなの
でもしかして稚魚が溜っているのでは・・・・・・

私は再度、ズボンを脱ぎ裸足になり箱眼鏡をさげて川に入って行
く。先きほどよりは冷たさは感じないがそれでもやはり体の芯が
冷えて行くのが解る。
膝上あたりまで入ったところで枯葉をゆっくり左右にかき分け浮
力のある箱眼鏡を水の中に押し入れる。箱に顔を近付け中を覗く
と枯葉の山だ。それを足先きで左右に除けると水に舞う枯葉に混
じり山女魚の稚魚が無数に泳いでいる。ここまで下りて来ていた
のだ。あまりの美しさに、ついつい見入ってしまった。
それでも数分間がやっとで水の冷たさに我慢ができずに岸に上が
った。膝から下は赤く、痺れた感じだ。乾いた日なたの石に足を
のせると微かに温かいような気がするが良くは解らない。

タオルで足を拭き、腰をおろし魔法瓶を取りコーヒーを
カップにつぐと最後のコーヒーがカップの底に一口ほど・・・
口にすると冷たいが飲み干してしまった。

冷たい足を摩りながらもう一度見たいと思うが、今の状態ではそ
の気力が湧いて来ない。そこでストーブで湯を沸かすことにた。
考えてみれば昼食もまだだった。カップヌードルでもと思うと空
腹だったことに気がつく。と同時に緊張感もほぐれて行く。

湯が沸き、やかんの口から湯気が勢いよく吹き出す。
ヌードルに湯を注ぐといい香りがして来る。

山の天気は変わり安いと言うが、空の色はゆっくりと鉛色に彩度
を落として行く。気にせず石に腰掛け海鮮ヌードルの湯気をふき
ながら食べはじめる。温かさがすばやく胃に広がってゆく。それ
が徐々に足先まで伝わって行き足の指先がジーンと痺れてきた。

ヌードルを食べ終え、その満足感を味わい大きく息をはくと白い
息はすぐに鉛色の空になじんでしまう。

残った湯でインスタント コーヒーを入れそれを持って石に寄り
掛かり足を投げ出し飲み始めると 空から白い物がゆっくり下りて
来る。雪だ。
それを見てもう一度川に入るか止めるか迷うが、結論はコーヒー
を呑み終えてから出そう。

雪は静かに舞い降りて来る。これが『ひとひらの雪』か。
私は体が急に温まったせいで少し虚脱感を覚えながら雪を眺た。

薄暗くなつて来る。もう一度川に入る決心をし、再び靴を脱ぎ始
めたが思ったほど寒くは無かった。
再び、川に入り箱眼鏡を水面に押し付けると少し暗くなった川底
で稚魚は相変わらず銀色の体で上下、左右に動き回っている。
先ほどよりは落ち着いて観察できる。冷たささえ無ければ見飽き
ること無さそうだ。

箱眼鏡の中が暗くなったのでそろそろあきらめることにし、腰を
伸ばすと頭と肩にうっすらと如月の雪が乗っている。
今夜はこのまま降り積もるのだろうか。

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